昭和末期の山陰本線 321列車 京都駅、馬堀旧駅、並河通過

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  • Опубликовано: 2 фев 2025

Комментарии • 25

  • @zakenna8012
    @zakenna8012 4 года назад +1

    平成の30数年間で、こんなにも近代的に変貌するとは!
    そのおかげで亀岡や園部という都市自体も変貌を遂げたんですけどね!

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  4 года назад

      za kenna 今のように変わったの20年前くらいですかね

    • @rhscm989
      @rhscm989 Год назад

      za kennaさん>
      嵯峨~馬堀間の旧線時代から馬堀~園部間では既に宅地造成等が盛んに行われており(ほかに下山近傍でも住宅地の造成が1980年代前半に行われていた)、そこそこの通勤通学需要があったために京都~園部間折り返し運転の普通列車が多数設定されていました(ほかに福知山または綾部発京都行きの気動車でさえ10連運転していたことが実際にあり、福知山や綾部などからは比較的余裕で京都市内まで着席通勤できたものの、列車密度が次第に高くなる園部以東では各駅に停まるごとに乗客が殺到し、車内は常に押しくらまんじゅう状態同然だった)。

  • @オッカケ小僧
    @オッカケ小僧 6 лет назад +1

    嵯峨野観光鉄道、トロッコ列車とは違い終点の駅で客車を牽引していた気動車を一旦切り離しタンパ線に戻し先頭の客車に接続し直していたんですね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      オッカケ小僧
      そうです。
      まいにちこんな面倒な事をしてました。
      でもそれがまた味がありました。

    • @rhscm989
      @rhscm989 4 года назад

      オッカケ小僧さん>
      この機関車をいったん切り離す光景ですが、1978年10月改正段階から1982年11月改正まで19~20時台の綾部駅でも日常的に見られましたよ(敦賀からの922列車を担当してきたDE10を解放し、この後浜田発東舞鶴行き544列車を担当してきたDD51が同時に進行方向が逆転した922列車の牽引に回り、解放されたDE10はこの後544列車改め941列車の牽引に回る)。

  • @marioloyce4514
    @marioloyce4514 6 лет назад

    動画投稿ありがとうございました。
    嵯峨野線沿線出身者としては懐かしさで一杯の動画でした。
    私は当時大学へ進学して他の場所に行っていましたが高校時代はよくお世話になりました。
    今となっては貴重なDD51による牽引で客車10両くらいを従えていましたね。
    当時は今の嵯峨野線区間もそれほど本数も多くなかったのでできた芸当でしょうね。
    にしても懐かしいのは嵯峨(嵐山)-馬堀の旧区間を走行する客車ですね。
    明るい内はまあまあ景色が良くて気晴らしになるのですが、夜間に走っているときは
    本当に闇の中を突っ走っている感じで若干怖かった思い出があります。
    それと旧馬堀駅は列車停車位置によっては異常に傾いていた記憶があります。
    並河駅もあの古くて黒っぽい駅舎も印象に残っています。
    確か昔のテレビ番組の「怪奇大作戦」(でしたか)にも登場したこともありましたね。
    今の状況をこの当時は想像できないくらい隔世の感がありますね。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      「本当に闇の中を突っ走っている感じで若干怖かった思い出」部分の表現が素晴らしですね、今の都会チックな電車では感じえない気分ですね。
      この動画から数年でガラッと変わってしまいましたね。

  • @青函局
    @青函局 6 лет назад

    JR以降も全国各地で汽車の旅が、日常の生活として普通に乗れました、地元の江差線や函館線用51形は札幌に転属したのですが、直ぐに快速海峡用が転入して試運転等をやってました、姫路の播但線の朝方が凄かったですね、学生の利用が半端ないです何か学校に寄って利用する車両が決まったようですね、今なら問題に成るでしょうが、それだけ学生の利用が多かったですね、右も左も客車列車だらけでした。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      茂幸山本 播但線は早くから50系になっていたので、行くのが後回しにしていました。
      それでも、近畿圏最後の、客車天国で、車の免許取得後よく行きました

  • @matmat6501
    @matmat6501 6 лет назад

    機関車の誘導・連結をする人、ホームで見守る駅員など、列車を動かす人が生き生きとして見えます。タブレット等もそうですが、人が列車を動かす、という部分が鉄道の最大の魅力と思っていました。ところで別の書き込みにありますが、20数年前某私鉄で駅員のバイトをやっていましたが、安全上の理由とやらで敬礼は途中で禁止になった記憶があります。今のJRは知りませんが。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      MAT MAT
      人が動かしている鉄道というのが最大の魅力でしたね。
      当時はその良さを分かっていたか、当たり前にしか思っていなかったか分かりませんが、今更ながら気づきました。
      私鉄は関西ですか?

    • @matmat6501
      @matmat6501 6 лет назад

      @@user-tabiichiro 山手線に接続する某路線です。日本にいる頃、時々駅で募集のポスター見てましたが、当時と時給変わっていないようでした・・・

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      MAT MAT 東京でしたか。

  • @rhscm989
    @rhscm989 6 лет назад

    遅ればせながら、あけましておめでとうございます。321列車とは現在の下り始発列車である221M(園部で現在の福知山行き1121Mに接続)のスジにほぼ当てはまりますよね。本年もよろしくお願いいたします。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      明けましておめでとうございます。
      今の始発は山崎からの始発電車でも接続しますが、
      かつての始発(5:25発浜田行き)は山崎からの始発が5:26着で、京都駅到着直前に行ってしまい、悔しい思いをしました。

  • @国鉄型車両を愛する乗り鉄

    旅一郎さん
    旧型客車時代でも朝夕の園部〜
    京都間の列車は乗ってないんです
    編成が長く多様な客車が連結されてましたが.. 反面 福知山線の
    篠山口〜大阪の列車は時々乗ってました、お盆や年末年始は福知山発だけでは無く鳥取方面からの
    直通も城崎ぐらいから混雑しましたから、後続で篠山口発が有れば乗り換えてました、福知山方面からの客車列車が混雑しても園部で下車して乗り継げる後続客車列車が無かったから、吉富.並河
    福知山線の南矢代.草野は客車列車は通過でしたね、高校生の時に
    早起きすれば途中折り返しで京都行きの園部始発の客車にも乗れたのでしょうが、混雑してましたから、同じ混雑でデッキに立つなら
    やはり東海道線を走る草津線直通客車を優先してました、

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      新居さん
      このころは乗るより、保津峡での撮影メインでよく乗っていました。
      始発は間に合わないので二本目の321によく乗りました。
      保津峡~馬堀を移動しながら撮影し馬堀から午前最後の838で京都に戻るというパターンでした。
      838は京都昼前着ですが、いつも混雑していましたね。

    • @rhscm989
      @rhscm989 6 лет назад

      午前最後の838 現在は園部以南で快速2214Mが後をしっかりと継いでいますが、現在の園部以北は福知山出発が1時間近くも遅くなって1132M(快速扱いのため山家・安栖里の2駅は通過)が後をしっかりと継いでいるということになります。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад +1

      @@rhscm989 電化してスピードアップした例ですね。
      逆に下りの839レ(京都18:17-福知山20:48)は、現在同時刻の18:17発261M で出発した場合、園部から後続の快速に乗り換え、福知山20:39着と、10分しか変わってません。客車もそれなりに健闘していましたね

    • @rhscm989
      @rhscm989 3 года назад

      ナハ10系列を除く旧客すべてに言えることですが、エクステリアはほぼ同じでありながら、インテリアだけは青と茶色で微妙に違うというか、青なら天国、茶色なら地獄でした。
      これは暖房機の有無ではなく、茶色にはほとんどの車両に窓下のテーブルが備わっていなかったからです(但し同じ茶色でも敦賀所属のオハ35 2020には例外的にテーブルが備わっており、同車の化粧板もベージュ色が採用されていました)。

  • @こんなおや-j5y
    @こんなおや-j5y 6 лет назад

    もうJRの時代ですが、列車が入線する時にはちゃんと駅員(助役ですかね?)が敬礼してますね。時計は懐中時計じゃなくて腕時計を見ているようでしたが。元旦に秋の宮島の玄関口になるJR宮島口から電車に乗ったんですが、厳島神社の参拝客が沢山降りるので赤帽を被って宮島口駅管理駅長の名札をしている駅員が赤のフライキを持ってホームに立ってましたが、列車が入線しても敬礼する事もなく、列車が出発して最後部にいる車掌にも敬礼することもなく、指差呼称もしないし、見ていて以前のように乗務員とのコミュニケーションが全くないなと思いました。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      もう今は敬礼はなくなったんですかね。
      無人駅、ワンマン列車ばかりなので、出発前に列車を送るといった動作も見ることがなくなり、人がいないからみれないのか、基本動作としてしなくなったのかわからなくなりましたね。

    • @こんなおや-j5y
      @こんなおや-j5y 6 лет назад

      今でも大阪メトロは列車の入線時と出発して最後部の車掌に対して手は上げてますよね。JRも平成の最初頃まではやっていたような記憶があります。まだ国鉄時代の名残があったんでしょう。

    • @user-tabiichiro
      @user-tabiichiro  6 лет назад

      こんなおや 阪急などは今もやってたような気がしますね。